酒をやめて気づいた「飲めない人が羨ましい」という逆説的な真実

お酒をやめると、いままで見えなかった景色が見えてきます。

僕が断酒を始めて感じたことのひとつは、「酒を飲めない人が羨ましい」という思いでした。

そもそも飲めない人は、最初からお酒を飲むという選択肢がない。

依存や失敗を経験することもなく、自然に健康を守れる。

それは本当に素晴らしいことだと心から思った。

ところが、実際に酒が飲めない知人にそう伝えると、返ってきた言葉は意外なものでした。

酒を飲めない人の本音

酒を飲めない知人は、逆に「酒が飲める人が羨ましい」と言ったのです。

理由を聞くと、「酔うという感覚を知らないから、みんなと同じように飲み会やパーティーを楽しめない」というもの。

僕からすれば、酒が飲めないことは最高の才能に思えます。

しかし、酒を飲めない本人とっては「楽しみの一部を知らない」という欠落感でもあるのです。

酒を飲めるとカッコいいのか?

知人はさらに「酒を飲める人はカッコいい」とも言いました。

正直、この感覚は何となく僕にもわかる。

まだ酒を飲めなかった学生時代、アメリカ映画で酒を飲むシーンを観ると「あぁ、カッコいいな」と思ったから。

タバコを咥えて、瓶ビールをラフにあおる姿は、スクリーン越しでも憧れを抱かせる。いつか俺もなんてね。

今でもその絵面はスタイリッシュで、文化的な「カッコよさ」として存在している気がします。

でも「酒を飲む行為そのものがカッコいいのではなく、映画や文化が作り上げたイメージがカッコよさを演出している」

ということだと思う。

つまり「酒=カッコいい」というよりも、「酒を飲む姿に込められた物語や雰囲気」に惹かれてきたのかもしれません。

そして、これは映画の中のアメリカ人俳優だからカッコいいのかもしれない。

それを今の僕が同じ事をしたら、ただの依存症者なんだな。残念ながら。カッコよくもなんともない。

依存症になったからこそ羨ましい

アルコール依存症を経験した僕にとって、酒を飲めない体質は心から羨ましいことです。

もし僕が最初から飲めない人間だったら、失敗や後悔もなく、断酒に苦労する必要もなかったはずだから。

しかし、冷静に考えるとそれは依存を経験した自分だからこその発想。

もし本当に飲めない体質で生まれていたら、知人のように「飲める人が羨ましい」と思っていたかもしれない。

知人も「酒に強い体」に生まれていたらどうなっていたか?

そして、酒を飲めない知人も「酒に強い体」に生まれていたらどうなっていただろう?

僕自身、体質的に飲める人間だったからこそ酒に依存してしまった。

逆に知人が飲める体質で、しかも強い体質だったとしたら、きっと今の僕と同じように深酒を繰り返し、アルコールの怖さに直面していたかもしれない。

つまり「羨ましい・羨ましくない」というのは体質だけで決まるものではなく、環境や習慣、そして自分がどんな人生を選ぶかによって大きく変わるものだと感じます。

この気づきは、断酒をしたからこそ得られた視点でした。

人間は「持っていないもの」を欲しがる

この体験を通じて感じたのは、人間はどうしても「持っていないもの」に憧れるということです。

  • 飲めない人は「酔う楽しさ」を知らないからこそ、それを欲する。
  • 飲める人は「酒をやめられない苦しさ」を抱え、飲めない体質を羨ましく思う。

結局、僕たちは「自分が持っていないもの」に目を向けがちです。

しかし断酒を続けるうちに気づいたのは、「羨ましい」と思う視点の裏側にこそ、本当の幸せや学びが隠れているということです。

まとめ

「酒を飲めない人が羨ましい」という感情。

けれど、飲めない人からすると「酒を飲める人が羨ましい」という逆の感情が存在する。

このすれ違いは、人間の欲望の本質を映し出していると思います。

お互いにないものを求めるのではなく、いま持っている自分の環境や体質を「恵まれている」と感じられることが、本当の意味で自由な生き方につながるのかもしれません。

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